増改築・リフォーム業は私の「想い」であり、「生き様」です。それをお客様にお届けできればこんなに嬉しいことはありません。
創業物語
こんにちは、リハウス店ヤマナカ・株式会社やまなか工務店の山中真二(やまなか しんじ)です。
私共のホームページをご覧頂き、まことに有難うございます。
それでは、このリハウス店ヤマナカの創業者の私が、幼少期よりどのような境遇で生かされ、どのような体験をし、どのような「想い」で創業に至ったのかを少し話させていただければと思います。
そして読み終えたときに、これまでよりちょっとだけ私たちのことを身近に感じていただけたら幸いです。
それでは、しばしの間お付き合いください。
その1.「創業者、山中真二(やまなか しんじ)の幼少期は?」
私は、九州の実直で口下手な父が一代で始めた「みかん農家」の三男として、昭和42年に生まれました。(家は貧乏?だったと思う)
子供の頃から、みかんの消毒散布作業、収穫運搬、肥料散布、田んぼの耕し、稲刈り、脱穀、などなど、学校の休みの日は普通に手伝ってました。(親の言い付けだから)同学年の子供と比べても、よく手伝ってたほうだと思います。
学校では、勉強はあまり好きではなく、サッカー・ソフトボールを一生懸命やってました。絵画や工作も子供なりに頑張ってやってました。
サッカーの決勝大会は自分のミスで敗退し、大泣きしたことがあります。
絵画などの作品展では、毎年のように受賞してました。それと、勉強は苦手でした。
*以下、画像をクリックで大きく見やすくなります!
中学生になり とりあえず、バレーボール部で3年間頑張りました。
地区大会では何度も優勝しました。それくらい頑張りました。(やらされた感はあります。)
そして、学校の冬休み、家業のみかんの収穫作業を
朝から暗くなるまで連日手伝っているとき、灰色の曇り空を見上げ、
「このみかん山の世界を一刻も早く抜け出して、もっと自分の知らない社会で思いっきり働いて、
どこまでやれるか何かに挑戦したい!」
と、心によく誓ったものでした。
そのときよく、山口百恵の「いい日旅立ち」という歌謡曲が
誰かのラジオからみかん畑に流れてたんです。
この曲を聴くと 今でもその時の 心情が蘇ります。
その2. 「父の考えと自分(中学生)の気持ちは?」
そんな中学2年くらいのある晩飯時、突然父に
「真二、おまえは農業の学校に行って、将来、家のみかん山を継がんかっ!中古やけれど乗用車買ってやるから!どがんやっ!」
私は突然のことに驚いて、無言でそっぽを向くのがやっとでした。
普段からあまり喋らない父が、酔った勢いで 意を決して発したのが 子供なりに分かりました。
そして父は焼酎を飲みながら母に、
「家にゃっ!3人も男の子供がおるばって、一人も跡継ぎがおらん・・・」
と、愚痴ってるのです。
私はそのときは、父に怒りさえ感じたんです。
「俺には兄が二人おるのに、なんで三男の俺やねん‼親が家業のことで愚痴るとこ小さい子供の時から観て、なんでぇっ!?跡継ぎしたいと思うはずないやろ!!」
でも、今思うと、父も母も その時以後は、私を少しも、とがめたりはしなかったんです。
なので、よけいに「よしっ!いっぱい働いて、稼いだお金で親孝行しよう!」
と、誓ったものです。
中学も2年生になると将来のことを少し考え、大半の同級生は進学ですけど、私は先ず母に
「叔父(母の弟)のところへ大工さんになるために修行に行く」と伝えたら母は、間髪入れず
「バカな!あんなところへは行くなっ!ならんぞ!」と。
「なんでや!」と言い返すと、大工棟梁の叔父は、どうやら福岡で独立して、
木材加工の機械多数設備投資したはいいが、工事代金を回収できず、資金繰りが・・・。
当時の私には大人の世界はよくわからなかったが、
「大工の弟子入りが、すぐには叶わない」
ということだけは理解したんです。
それで、やむなく惰性で、目的もなく地元の高校の普通科に進学しました。
そんな状況で入った普通高校では、これといって充実したことがなく、一応、卒業は出来ることになり、大阪の親戚の紹介で、
「大工さんじゃないけど、小さい実直な総合建設業の会社で、建築関係の仕事やで、試験受けたら?」と。
ありがたい と思いました。
その3. 「決意・見習い修行開始・夜学」
一応筆記試験と面接らしきものを受けて、昭和59年4月に新入社員となりました。
面接のとき初対面での社長に「普通高校での成績悪いなぁ~。建築工事現場では右も左も解らんと思うから、夜間に建築の学校で勉強は必要だぞ。」と言っ ていただきました。
そのことは、入社試験前から採用条件として聞かされていたので、周囲の大人の勧めで、仕事終えての夕刻より電車で通学できる距離にある 大阪府立今宮工業高等学校(現在の今宮工科高等学校) 建築科(定時制課程)に入学することになったんです。
この建設会社に18歳の私と建築の学校を卒業した年上の同期新入社員もいました。
上司や先輩も四年制大学の工学部建築科出身の人がほとんどで、いわゆる土建屋という怖いイメージ(勝手なイメージ)はなく、会社の人は紳士的で、工事現場でも会社でも難しそうな図面を描いたり、積算や工事工程表作成など難解な作業をしてました。
私は、これはこれで とんでもない場違い(自分の居場所がない)なところに来てしまったのではないかと大きな不安にかられたのを覚えてます。
しかし、実家に逃げて帰るとか、他の会社へ再就職するなど、その時は少しも考えませんでした。
自分の頭の中を空っぽにして、ゼロから教わって、工事現場でも夜学でも、とにかく アホになって、とことん吸収しようと自分に言い聞かせました。
そして、一人前の技術屋になって、危険で不便な両親の家を、
「安全で快適な家に建て替えるんや!」
と決意したんです。
なので、夜学で必死に勉強しました。
特に製図の時間は気合を入れて全力で臨みました。線の一本一本、基本に忠実に、将来の両親の住む家をイメージしつつ、目の前の課題を必死にこなしていきました。
会社でも、工事現場でも すべてが見習いです。
なので、生コンクリートをカート(一輪車)で押したり、作業用仮設足場を運んで組立・解体、倉庫の整理、人力で掘削したり、一週間ひたすら工事現場の掃き掃除であったり、ひたすら新品の窓ガラスの拭き掃除と、ありとあらゆることをさせていただきました。
中でも、新築工事に伴う土工事の手直しで、真夏日の日曜日に人力で、1トンダンプ7台半分の残土を積載搬出という作業を、一人でさせていただいたときは、さすがに一人しか居ない静かな工事現場内に、声にならない声、うめき声のようなものをもらしながら何とかやり遂げたことも。
また、作業用足場から転落(頑丈な体に産んでくれて感謝)したことも1度や2度でなく、鉄粉が眼球に刺さって治療したり、溶接の光で目を痛めて数週間ほど苦 しんだりと。
社会人であれば、誰もが体験するような試練だったのかなと思います。
上司に理不尽なことで叱責され、悔しくて、トイレの手洗い鏡の前で、目を 真っ赤にして泣いたこともあるでしょう。
また、見習いの立場とはいえ、朝から夕刻までコンクリートを削岩機で斫る作業をしてると、削岩機の振動で休憩時も 手の震えが止まらない錯覚に陥るんです。
「今晩、製図の実習で、図面、ちゃんと描けるかな?イメージした線、一本一本描けるかな!」
と、一人不安になることも多々あります。
その4. 「出会い」と「一筋の光」と「責任感」
そんなことを繰り返し、2年経過したとき、夜学の放課後も居残りで、毎日、私一人のために専門科目の設計・計画・法規・施工などの授業をM先生がやってくれるようになりました。
M先生によると、大阪府下で授業の単位を早く取得したら、それだけ早く卒 業できるという制度ができたそうです。
先生がおっしゃるには、この学校では、
「この制度を採用すべきでない。同時期に入学して、通常は4年で卒業なのに、早 く卒業できる学生と遅い学生がでるのは公平でない。」
と、制度採用反対派の先生と賛成派のM先生の派閥と対立してるようでした。(その時は、よくわからんでした。)
M先生は、「君みたいな やる気のある生徒は、一刻も早く社会に出たほうが社会の役に立つし、それが世の中のためになるんだから!環境が許されるなら更に大学進学(夜学)するとか。君の考えはどうなの?」と聞かれました。
私は、職員会議でもめてることは知りませんでしたが、「M先生、そんな制度があるんならそれは、利用したいです。(進学は環境的にできないにしても)」と伝えると、「よしっ!わかった!君にとっての1年は、たとえ1年でも大きいよ!」とおっしゃいました。
私は、これまで、「高校を2回も入学するなんて、なんてバカな無意味なことやってんやろ!?自分みたいな不器用で要領を得ない人間はどうしようもない。気持ちが折れそうなとき、幾度となく、自分はこの世の中に必要とされない、居ても居なくても、存在意義のない、意味のない、なんて ちっぽけな人間なんだろう。」と、むなしい気持ちになる時もあったんです。
でもM先生の、「君みたいな やる気のある生徒は、一刻も早く社会に出たほうが社会の役に立つし、それが世の中のためになるんだから!」という言葉は、その時の自分にとって、「一筋の光」で、「自分は間違ったことしてないんだ!」と、思えたんです。
それから、M先生たちのご尽力により(授業の組合等大変・先生は当時小さい子供があり新婚同然なのに毎晩遅くまで私のため授業して)おかげで予定より1年早く卒業することができたんです。
私は、「M先生に足を向けて寝れない!」ほど感謝の気持ちでいっぱいでした。
と同時に、「先生の自分に対する思いを裏切れない!」という責任みたいなものを感じました。
その5. 「親の存在・自分の原点?」
学校(建築科)の卒業式の後、M先生とクラスの皆で食事をして帰宅した夜、2回目の高校卒業式なんて、知人・親類には、やっぱり、恥ずかしくて言えませんが、遠く離れた実家にだけは報告の電話をしたんです。(当時は昭和の時代で、携帯はなく、固定電話から)
すると変わらぬ明るい母の声が応対します。
私:「しんじ やけど!」
母:「ばぁっ~!しんじきゃぁ!?」
私:「うん。今日ね、学校の卒業式やったよ!」
母:「うわぁー!そりゃっ よかった!がんばったねっ‼」
私:「うん。一年早く・・・ウムッ ウムッ!」と、早く卒業できた事情を話そうとするけど、突然涙があふれて言葉にならなかったんです。
母も私の異変に気づき、驚き、父に状況を即、伝えたようで、
父:「何も食物なかったら、大阪の叔母さんの家の冷蔵庫の中の物でも食えっ!」(父は戦後の食料難を体験してるから、こんな必死な助言をしてくれたんだと思う)
私:「う・うん。・・・わかってる!」っと、いうか、ちょっと ちがうんやけど。
まあ、こんな具合で卒業報告は とりあえず できたんですが、
とにかく、この時ほど、親の不変の大きな存在・信頼・温かさというものを、身に染みて感じたことはなく、親の生き方・教えが自分の原点だと 感じさせられたことはないです。
だから、自分は、くじけたり、負けたりするわけにはいかないと、心に誓ったものです。
その6. 「生きがい・達成感・充実感?」
建設会社での見習い・補佐の仕事を5年~7年くらいさせていただいた頃からでしょうか。
新築工事の(現地調査・積算・見積書作成・実行予算書作成・工程管理・施工管理・品質管理・安全管理・施主様対応等)完成・引渡しまでの一切の仕事を任せていただけるようになりました。
また、小工事から一定規模以上の建築工事も任せてもらえるよう建築に関する国家資格も順番に取得していきました。
そして、一物件、一物件、完成引渡し後、施主様に喜んでいただく毎に、自信がつき、
また、周囲の人たち(上司等)の私を見る目も変わってきたように感じました。
施主様のお金を何千万円、時には何億円と預かり、工事を首尾よく進行し、納得いただいた完成建物を引渡し、喜んでいただき、そして正当な対価を得るという、責任重大ではあるが、非常に達成感・やり甲斐のある仕事です。
なので、工事現場事務所で夜通し施工図面等描くことも度々でした。
建設会社にお世話になって約20年以上経つ間には、若気の至りで、
途中脱線しそうなことも、少なからずありました。
が、 住宅建築・神社仏閣・学校建築・マンション建築・店舗建築・他様々な建築工事に携わらしていただくときも、一つ一つ、いい仕事をしなければと、全力投球で きたと思っております。
それは、信頼して工事を発注くださる施主様・自分に任せてくださる会社の社長はじめ上司の期待に応えないわけにはいかないし、お世話になっている会社をもっと盛り上げていけたら、更に楽しいのではと考えてたからです。
その7. 「18歳の時抱いた夢を達成します?」
この建設会社に入社して21年経過し、私は39歳で妻があり、子供が生まれて住宅ローンがありました。
18歳の時抱いた「一人前の技術屋になって、危険で不便な両親の家を安全で快適な家に建て替えるんや!」という夢は、現実の社会の中では、技術屋とはいえ、所詮サラリーマンで、遠方の地で工事できるほどの休暇は取れないし、資金面でも無理があり、10年も昔にあきらめていたんです。
しかし、自分の一度の人生で、この夢をあきらめたら、自分の生きた証が残せないし、なにより、両親にたいして、ここまで人生の指針になってくれた感謝の気持ちを形で表せないのは一生 悔いが残ると感じました。
そこで、思い切って起業し、自由な時間を作りたいと考え決断しました。
起業どころか家族の生活は立ち行かなくなるし、決して簡単な決断でなく、生活のこと、お世話になってる会社のこと、いろいろ考えました。
妻は結婚する前から私の「18歳の時から抱いた夢」を知ってたので反対しませんでした。
妻の両親はもちろん賛成しないし、私の両親に至っては、私が説得しました。
そして、建設会社の社長に勝手な事情を話し、会社の朝礼でも、上司や同僚の前で報告させていただきました。
そのときの報告は「勝手な報告で申し訳ありません。18歳の時から抱いた夢を厳しい現実の社会の中で、あきらめかけてた夢を、自分で起業して、5年以内に達成します。」という内容だったと思います。
その8. 「創業当初は?」
創業当初、15年計画表なるものを作成しました。
創業して最初の2年間は当然のごとく苦しい日々でした。
なんといっても既存客様ゼロからのスタートなんですから。
営業の仕事は経験なく、どこへ何を営業行ったらいいのかさえ・・・。ふらふらと、中央公園の方へ あてもなく歩いていくことも。
何もしなくても、固定費などの経費は掛かります。
応援してくれてる叔母から運転資金を借り、国の金融機関から融資もうけました。
そのうち、間もなく妻の頭部に500円玉くらいのハゲができました。
私は、「ハッ」として、深夜作業のアルバイト(食品コンビナート)に行き、時給何百円のお金を稼ぎ、明け方に帰宅後、2時間寝て、工事現場で仕事する、という生活をするようになりました。
そうすることで、少しは妻の気持ちが楽になればと思ってました。
ところが、そういう生活を続けて1か月経過するころ、ちょっとした工事での自社職人の仕事の仕上がりや、私の事前説明不足など、今まで無かったような お客様からの苦情を度々いただくようになりました。
「なんで何回も・・・集中力足らんのんか!?」
すると妻が唐突に、
「やっぱり、本業のリフォーム工事だけに専念してやらんと、お客様に失礼やわ!アルバイトから明け方帰宅して昼間の仕事は無理があるよっ!副業はやめて、本業をがんばろっ‼」
と言ってくれたんです。
私は冷静さを装い、
「そうやな。本業のリフォーム工事に専念するわ。」
と返事しましたが、内心、
妻の強い言葉に、「よしっ‼」と、何かモヤモヤした気持ちが スカッと晴れたような爽快な気分になり、
心の中で「よしっ‼本業でやるぞっ‼」と、叫んでました。
その9. 「18歳の時抱いた夢達成?」
創業して3年経過し、更に営業的なこと、技術的なこと、資金繰り・社内体制など、次々に改良していき、
業績も徐々に上がり、新入社員も加わり、あの妻の500円玉くらいのハゲも どこをさがしても、
すっかり無くなっていました。
創業から5年経過するころには、15年計画内での予定売り上げを上回るくらいまでになり、
そして、強烈な追い風、不思議な目に見えない力が働き、なんと本当に、
「一人前の技術屋になって、危険で不便な両親の家を 安全で快適な家に建て替えるんや!」
という、あの私の「18歳の時抱いた夢」=「人生の夢」を達成してしまったのです。
これは、本当に「達成すべき夢」なのか ということから再検証し、周到な準備段階から達成・その後の居住者の生活状況報告までの内容が、かなり膨大になります。
この時のことは、私にとっての「奇跡の物語」として、別枠(父ちゃん・母ちゃん家物語、山中真二のブログ)で報告させていただいております。
その10. 「空白の2年間?」
「18歳の時抱いた夢」を叶えた直後は、充実感と達成感で満ち溢れてたんです。
そして、自分にとっての「18歳の時抱いた夢」というのは「人生の目標」に等しい位置づけで、これさえ達成できたら、自分はいつ死んでも悔いはないとさえ考えていました。
なので、夢を叶えてから2年経過(平成26年3月竣工)しますが、その間 会社はシステムとして機能してましたが、創業以来右肩上がりの業績も、初めて横這いになりました。
自分で振り返ると、私自身が魂の抜け殻みたいな状態になり、これではいけない、必死で仕事に臨まなければと、自分自身に言い聞かせても、なにか空虚感から脱し得ないんです。
いまごろ、以前、Y先生(経営・人生の先生)のおっしゃってた、
「山中さん、夢、達成できておめでとう。でもね、そのあとの自分の気持ちに、ポカンと穴が空いたみたいにならないよう、気を付けてね。」
という言葉を思い出しました。
その時は、さほど気にとめてなかったんです。(夢の途中でしたから)
自分にとって、こんなに大きな夢の達成も、その後の空虚感も、初めての体験でした。
その11. 「新たな決意と目標?」
自分の心の空白の期間を、是が非でも2年間で終わりにします。
それは、私には、不器用ながら幼少期より健康に育てくれた両親、
どんな時も信頼してくれて、助けてくれた兄・妹、
実直な建築の会社を紹介してくれた叔母・叔父、
お世話になった建設会社の社長・上司、
そして、「君みたいな やる気のある生徒は、一刻も早く社会に出たほうが社会の役に立つし、それが世の中のためになるんだから!」という言葉と「一筋の光」を見出して尽力してくれたM先生を 裏切るわけにはいかなし、行動と結果で恩を示すしかないんです。
そのためにも、自社を頼りにしてくださるお客様・社員・各業種の職人と、それぞれの家族の皆さんが、いつまでも笑顔を絶やさないよう、
しっかり本業である増改築・リフォーム業をとおして地域社会に貢献しなければと、決意新たにしております。
最後に、創業(平成19年11月)以来、これまで、誰よりも辛酸に耐えてる妻について、
この場を借りて一言 話させてください。
幼い二人の子供の世話、すべての家事、会社の仕事、私への気づかい、社員への気づかい、
職人さんへの気づかい、お客様への気づかい、そしてPTA会長の仕事など、
本当に満身創痍でがんばってくれてありがとう。
また、私の悪態(言葉)に「もうっ!やってられん!子供を連れて出ていく!」と、
大泣きされたことも 2回ほどありましたが、
今日まで 家を出ていかないでくれて ありがとう。
長い文章を 最後まで、読んでいただいて ありがとうございました。